週末おうちシネマ

週末の夜、お酒とおつまみをお供にまったり自宅で映画鑑賞の記録です。

92歳のパリジェンヌ /2015年 フランス

92歳の誕生日、子どもと孫に囲まれ目指せ100歳とお祝いされる中、
突然2ヵ月後にこの世を去ると発表する主人公 マドレーヌ( マルト・ヴィラロンガ)

突然の出来事に戸惑いながら母の決意を止めようとする家族。

尊厳死のために戦ったミレイユ・ジョスパン の一生を描いた物語。

 


『92歳のパリジェンヌ』予告篇

 

 

 

身近な人、愛している人

物語はマドレーヌがまたひとつ「できること」を失ったところから始まる。

マドレーヌは以前から、自分のできることが少なくなり生きることに不自由を感じるようになったら自分の意思で動ける間に死を選びたいと家族に伝えていたが、真剣に取り合っていなかった子どもたちは、母の「突然」の宣言に戸惑う。

母に同居し介護すると提案する娘 ディアーヌ(サンドリーヌ・ボネール )、母をうつ病と決めつけ受け入れることのできない息子 ピエール。

マドレーヌの気持ちを理解する家政婦ヴィクトリアと、脚の不自由なマドレーヌを気遣う隣人 デイビットが、二人と対比的に描かれる。

身近な理解者か、子どもたちか。

愛する子どもたちに理解されるのが一番に決まっている。けれど子どもたちは愛する母親を失うことが受け入れられず、目をそらそうとする。

実の親だったら考えられるだろうか。母親が死を選ぼうとするなんて。自分が助けになるだけでは駄目なのか、心の支えにならないのか、無力さを感じてしまうと同時に、ただただ失いたくないという整理のつかない気持ちになるだろう。 

誰が一番、母の心の傍にいるのか。

 

 

 死への恐怖

母の遺品整理に気づき、ディアーヌはその日が近づくことを知る。
その夜、トイレでうたた寝をしてしまうマドレーヌ。キッチンでは鍋に火をかけたままだ。鍋から煙が立ち、バスルームに廻ってきた頃、異変に気づいたディアーヌは眠りから覚めるが、体が言うことを利かない。

突然の死の恐怖に怯えるマドレーヌ、しかし動くことのできないまま、倒れこんでしまう。一方、昼間の母が気になり連絡を取ろうとするディアーヌ。不安から母の家へ向かい、倒れたマドレーヌを発見する。

 

点滴の管をつけたままベッドで死ぬのはごめんよ
オムツもいや
気力のあるうちに自分で死を決めたい

 

病院で目覚めたマドレーヌがディアーヌに悲痛に訴える。

おそらくここでようやく、母の決意の意味が見え始めたのでしょう。

どのように生き、どのように人生を終えるか、自分で決める権利。

 

その夜、同室の男性と交わした言葉がとてもフランス映画っぽいと感じました。

夜は眠るためにあるものじゃない
歌ったり誰かと「寝る」ためにある

 

女性と「寝る」ね。

彼の人生とは恋愛を謳歌することだったのでしょう。

自由に恋愛もできなくなった今、もう生きる光が無いと。

そしてこの後看護師が二人を慰めるように促す歌がさらに感慨深かったです。(歌詞になるから省略)

 

 

死ぬための勇気

翌朝マドレーヌは病院前で妊婦の破水に出くわし、出産を手助けする。

老い消え行く命と新たに生まれる命との描写、それだけじゃない、この件はディアーヌにとって、助産師だった母の人生に思いを馳せるきっかけになったのだと思います。改めて母の言葉を聞き、ディアーヌは覚悟を決め、母と最期の時間を精一杯過ごすこととする。

 

そうした中、未だ母を受け入れられない兄ピエールと喧嘩になり、

若き日の母が奔放で夫以外の恋人が何人もいたこと、父は何度も迎えに行ったことを聞かされる。そして母が今でも大切にしている初恋の存在を知り、一緒に会いに行くことを決める。

これは死ぬことを止めるためではない、母が人生をまっとうするため、

そしてディアーヌが母の人生に寄り添うためだったのだと思う。

 

大切な人に会い、遺品整理も終え、命日が近づく。

 

尊厳を保つために自ら選ぶ死、それでも大切な人と別れるのは辛い。
大切な人と過ごす最期の時間が、それをやり遂げる勇気をくれたのだ。

 

生きるとはどういうことか、

そして看取るのではなく最期は一緒に生きたいと考えさせられた映画でした。